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3-20. パリ科学アカデミーが光の干渉と回折の懸賞論文を公募

フレネルの光の干渉と回折の論文

 ヤングの実験は十分に理解されませんでしたが、光の粒子説が覆える可能性があると考えたフランスのパリ科学アカデミーは1817年に光の干渉・回折の理論の懸賞論文を公募しました。マリュスの偏光の発見によって光の粒子説の真実性が高まったことから、光の干渉・回折を数理的に解析できれば光の粒子説が確固なものになると考えたのです。この懸賞に応募してきたのがフランスの物理学者オーギュスタン・ジャン・フレネル(1788年 - 1827)です。

オーギュスタン・ジャン・フレネル
オーギュスタン・ジャン・フレネル

 1815年、ナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出しフランス本土に上陸したとき、フレネルは反ナポレオン派につきましたが警察に捕まり軟禁されました。しかし、このことがフレネルに光の研究を行う時間を与えることになりました。

 フレネルはヤングの実験から約 15 年ほど経過したこの時期に光の回折や干渉の研究を行いました。複スリットの代わりに複プリズム(バイプリズム)を使った装置で光の波の干渉実験を行いヤングの実験と同等の結果を得ました。そしてホイヘンスの原理を拡張した原理でニュートンリングや薄膜が色づく現象を説明しました。

フレネルの複プリズムによる干渉実験
フレネルの複プリズムによる干渉実験

光の波動説が認められる

 パリ科学アカデミーはフレネルの論文の審査に取り掛かりました。審査員は光の粒子説の立場を取るラプラス、ジャン=バティスト・ビオ、シメオン・ドニ・ポアソン、光の波動説の立場を取るドミニク・フランソワ・ジャン・アラゴ、そして中立的立場のジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックの5人でした。

 光の干渉や回折が光の粒子説で解き明かされることを期待していたパリ科学アカデミーはフレネルの論文を却下しようとしましたが、フレネルの論文の重要性に気が付いたアラゴが公正な審査を求めました。結果としてフレネルの論文が正しいことが証明され科学アカデミーは1819年にフレネルに賞を与えました。

 これは光の波動説が認められたことを意味しますが、 この論文でフレネルが示したのは光の干渉と回折でけで複屈折や偏光の原理については明らかにされていませんでした。ですから光の粒子説vs光の波動説の決着がついたわけではありません。


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